榎本武揚はなぜ東京農大を創設したのか?武士が農業教育に捧げた情熱の真相
幕末の動乱期、旧幕府海軍を率いて箱館・五稜郭に立てこもり、新政府軍と最後まで戦い抜いた伝説の武将・榎本武揚。明治維新後はその卓越した才覚を買われ、逓信大臣や文部大臣、外務大臣などの要職を歴任した異色の偉人として知られています。しかし、彼が日本屈指の農学総合大学である東京農業大学の創立者であるという事実は、意外にも広く知られていません。
海軍のトップであり、近代化の旗手だった武士が、なぜ畑違いとも思える「農業教育」に情熱を傾けたのでしょうか。世田谷キャンパスに誇らしげに佇む榎本武揚の銅像を起点に、歴史の波間に隠された設立理由と、2026年の今も受け継がれる強烈なフロンティア精神の原点を徹底取材しました。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:東京農業大学のルーツは、1891年(明治24年)に榎本武揚が創設した「徳川育英会 育英黌農業科」にある
- 要点2:創設の背景には、オランダ留学で培った近代科学への知見と、没落した旧幕臣たちの生活を救済・自立させる強い使命感があった
- 要点3:初代学長・横井時敬が唱えた「実学主義」と融合し、130年以上の時を超えて日本の食・農・環境を支える学府へと結実している
【ルーツを探る】幕末の英雄・榎本武揚と東京農業大学の意外な結びつき
東京農業大学の歴史を紐解くと、その誕生は1891年(明治24年)3月6日にまで遡ります。榎本武揚が中心となり、東京・飯田河原町(現在の千代田区飯田橋付近)に開校した「徳川育英会 育英黌農業科」こそが、現在の東京農大の直系ルーツです。
一般的に榎本武揚といえば、戊辰戦争の最終局面である箱館戦争で「開陽丸」を駆り、蝦夷地に新政権を樹立しようとした海軍軍人のイメージが先行します。その彼がなぜ私立の農業学校を立ち上げたのか。そこには、単なる思いつきではない、国家百年の計を見据えた極めて合理的な計算と熱い情熱がありました。
当時、官立の農業教育機関(帝国大学農科大学など)は存在していたものの、その多くはエリート官僚の養成や高度な理論研究に偏っていました。榎本は「国家の基盤は農にあり、現場で真に役立つ技術者を育てなければ日本の自立はない」と痛感し、私財を投じる覚悟で独自の教育機関の設立へと動いたのです。
【なぜ農業だったのか?】旧幕臣の救済と国家の自立を懸けた設立理由
榎本武揚が農業教育に情熱を注いだ理由は、大きく分けて2つの決定的な動機に集約されます。
第1の理由は、「旧幕臣たちの生活救済と自立支援」です。明治維新によって職と禄(給与)を失った旧徳川家の家臣たちは、激変する社会の中で困窮を極めていました。旧幕府軍の総大将として彼らを戦渦に巻き込んだ榎本は、生き残った武士やその子弟に対し、強い道義的責任を感じ続けていました。
武士のプライドだけでは飯は食えない――そう考えた榎本は、徳川家の救済組織であった「徳川育英会」の会頭に就任すると、旧幕臣の子弟に実践的な農業技術を学ばせ、北海道開拓や全国の農村指導者として送り出すルートを切り拓きました。「実学を身につけ、自らの手で大地を耕して生き抜く力」を与えることこそが、彼なりの最大の贖罪であり、武士たちへの愛情でした。
第2の理由は、「欧米列強に負けない産業立国の基盤づくり」です。榎本は幕末期、幕命によりオランダへ足かけ5年間の留学を経験しています。そこで学んだのは航海術や砲術だけでなく、化学、国際法、そして近代的な産業構造でした。
ヨーロッパの強大さの根底には、豊かな農業生産力とそれを支える応用科学がある。天然資源の乏しい日本が近代国家として独立を保つには、農業を単なる経験則から「科学的な産業」へと昇華させなければならない。この先見の明が、実学としての農業教育機関の設立へと彼を突き動かしました。
【実学主義の夜明け】初代学長・横井時敬と「人物を畑に還す」思想
榎本武揚が蒔いた教育の種は、後に東京農業大学の初代学長となる横井時敬(よこい ときよし)という不世出の農学者を得て、強固な大樹へと成長します。
育英黌農業科はその後、1893年に「東京農学校」へと改称し、徳川育英会から独立して私立学校としての歩みを始めました。この過渡期を支え、大学の教育理念を確立したのが横井時敬でした。
横井が掲げた理念は極めて明快で強烈です。
- 「農学栄えて農業亡ぶ」(机上の空論ばかりが発達して、実際の農業現場が衰退しては本末転倒である)
- 「稲のことは稲に聞け、農業のことは農民に聞け」(現場の事象を観察し、実践の中から真理を導き出す)
- 「人物を畑に還す」(大学で学んだ優秀な人材は、官公庁の椅子に座るのではなく、生産の現場へ還って地域を豊かにすべきである)
榎本武揚が抱いた「現場で役立つ技術を」という志は、横井の「実学主義」という明確な哲学と融合し、現在の東京農業大学の建学の精神「人物を畑に還す」、教育理念「実学主義」として今なお脈々と受け継がれています。
【榎本武揚の経歴と功績】万能の天才が遺した多才すぎる足跡
改めて榎本武揚という人物の経歴を振り返ると、そのスケールの大きさには目を見張るものがあります。彼は単なる軍人や政治家にとどまらない、幕末・明治期屈指の「科学者・エンジニア・冒険家」でした。
箱館戦争後に投獄された際も、獄中で書物を読み漁り、新政府の重鎮・黒田清隆らにその才を惜しまれて特赦されました。出獄後は北海道開拓使として活動し、炭鉱開発や気象観測、鉱物資源の調査などに従事。その後は外交官としてロシアとの「樺太・千島交換条約」の締結を成し遂げるなど、日本の国境画定にも決定的な功績を遺しています。
さらに電気学会や日本化学会の前身組織の設立に関わり、日本初の本格的な殖民協会を立ち上げるなど、その関心は常に「科学技術の実用化」と「海外フロンティアの開拓」にありました。東京農業大学の設立は、榎本が歩んできた万能のキャリアが生み出した、必然の結晶だったと言えます。
【キャンパスで出会う歴史】世田谷キャンパスに佇む榎本武揚像
現在、東京都世田谷区桜丘に位置する東京農業大学 世田谷キャンパス。緑豊かなキャンパス内には、堂々たる威容を誇る榎本武揚の銅像が建立されており、行き交う学生たちを静かに見守っています。
かつて渋谷の常盤松にあったキャンパスから現在の世田谷へ移転し、さらにはオホーツクキャンパス(北海道網走市)や厚木キャンパス(神奈川県厚木市)を展開するまでに発展した東京農大。北海道の地にキャンパスを有している点も、かつて蝦夷地を開拓しようとし、北海道開拓使として汗を流した榎本の夢の続きを見るかのようです。
学生たちが日々取り組むバイオサイエンス、食料問題の解決、環境保全、アグリビジネスの研究現場には、榎本武揚が目指した「科学と現場の融合」が色濃く息づいています。
【榎本武揚と東京農業大学】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:榎本武揚と東京農業大学にはどのような直接の関係があるのですか?
A1:榎本武揚は、東京農業大学の前身である「徳川育英会 育英黌農業科」を1891年に創立した中心人物(創立者)です。私財を投じ、没落した旧幕臣の自立支援と国家の産業発展を目指して学校を興しました。
Q2:なぜ幕末の武士である榎本武揚が農業に注目したのですか?
A2:オランダ留学を通じて近代科学と産業基盤としての農業の重要性を痛感していたこと、そして維新後に困窮した旧幕臣たちに実践的な技術を身につけさせ、北海道開拓や自立した生活を送らせるための手段として農業が最も適していると考えたためです。
Q3:東京農業大学の初代学長は榎本武揚ですか?
A3:創立者は榎本武揚ですが、初代学長は日本の農学界の重鎮である「横井時敬」です。榎本が学校の基盤を築き、横井が「実学主義」「人物を畑に還す」という教育理念を確立して大学へと発展させました。
まとめ:激動の時代を拓いた実学の灯火|現代に息づくフロンティア精神
敗軍の将から明治政府の重鎮へと登り詰め、最後は次世代を担う若者のために「実学の学び舎」を遺した榎本武揚。彼が情熱を注いだ東京農業大学の設立劇には、仲間を見捨てない義理人情と、世界水準で国家の未来を見据えた科学的合理性が同居していました。
食料自給率の低下や気候変動、資源リスクが叫ばれる2026年の今だからこそ、「農を科学し、実践の場で社会を支える」という榎本の理念は輝きを増しています。世田谷キャンパスの銅像が見つめる先には、時代が変わっても決して色褪せない、大地に根ざした挑戦者たちの未来が広がっています。 (出典: 榎本 武揚 東京 農業 大学(Yahoo!ニュース))